出す作品全てハズレ無しと僕の中で評判の米澤穂信先生の連作短編集「Iの悲劇」を読み終わりました。
読了直後の感想をつらつらと書いてみます。ネタバレ含んでますので、未読の方はご注意ください。
もう少しダークな雰囲気の話かと思ってたけど、意外にコミカル
本作は人が住まなくなってしまった村を再生させるのを目的とする市役所の部署「蘇り課」のメンバーが、Iターンでやってきた移住者の間でたびたび巻き起こるトラブルと謎をどうにか解決しようと奮闘する連作短編ミステリーです。
表紙全体からはなんとな~く暗く重い雰囲気が伝わってきます。
元々作者の米澤さんはビターな話を持ち味としてますし、この本も相当ダークな話なんだろうなぁ・・・と覚悟して読み始めましたが、意外や意外、結構コミカルな雰囲気でサクサク読み進めていけました。
ラストはたしかに衝撃の展開ではありましたが、読後感もそこまで悪くなく、うっすらと気怠い無力感が残る程度ですw
公務員3人組が全員キャラが立ってる
この小説がテーマに反してライトな雰囲気を出しているのは、蘇り課のメンバー3人のキャラが良い感じで立ってるのも大きいと思います。
人当たりがよく、さばけた新人、観山遊香。
出世が望み。公務員らしい公務員、万願寺邦和。
とにかく定時に退社。やる気の薄い課長、西野秀嗣。
日々舞い込んでくる移住者たちのトラブルを、最終的に解決するのはいつも----
(帯の紹介分より引用)
ミステリーである以上、謎を解く探偵役が必要ですが、いったいこのメンツの誰が探偵役になるというのか・・・帯の文を見ただけでもワクワクしちゃいますよね。
市役所勤めの平凡な公務員が主役のミステリーというのもなかなか斬新で、
- 移住者からトラブルの相談が来ても今年度はもう予算がないから何もできない
- 他部署を巻き込みつつ時間を稼ぐ
- 公園の設備の話は公園課の仕事なのでそっちに行ってくれ
などなど、いかにもお役所あるあるなお話が多く、読んでてニヤッとしてしまいましたw
特に予算の話は各短編の中でも繰り返し語られていて、
「まあ、そりゃそうだよね。お金がないと何もできないし、お役人さんもつらいところだよね」
と思わず納得しちゃったりもしましたが、この『予算』というワードがクライマックスであそこまで効いてくるとは・・・というか、まさにそここそがこの連作短編集のキモだと気づいたときに、作者の米澤さんの力量に感服の溜息が漏れました。さすがの一言です。
【ネタバレ注意】限界集落の問題と日本の未来
移住者の間で次から次へと発生するトラブル。
なんとなく市長と副市長あたりが黒幕で、何らかの理由でⅠターンプロジェクトを頓挫させようと思ってるのかな…くらいに思ってましたが、まさか課長と観山までがグルだったとは予想の上を軽々と超えていかれました。
確かに読み返してみれば、課長と観山が移住者を定着させない方向へそれとなく誘導している描写が随所にあり、このさりげない伏線の張り方はまさに米澤ミステリーの神髄ですね。
裏切られた形の万願寺は2人を責め立てますが、ただ、万願寺本人も気づいているように、どうしようもない問題でもありますよね、これ。
結局のところ人口がシュリンクしていく日本社会において限界集落を復興させることなど至難の業だし、ましてや一度滅びた村を再生させるなど、過ぎた夢なのかもしれません。
旧日本軍の敗因の1つは補給線が伸びすぎたことでした。連戦連勝で押せ押せだった時は気にならなくても、いざ守勢に回った時は命取りになります。
限界集落の問題もこれに近いものがある気がします。日本社会が右肩上がりで成長していたときは全国津々浦々までインフラを整備する余裕もあったんでしょうが、お金も人手も足りない現代の日本社会でその膨大なインフラは維持することすら困難になりつつあります。ましてや、数人しか住んでいない集落ともなればなおさらです。
限界集落を切り捨てることで予算を浮かそうと考える課長や観山たちに対し、万願寺は、
「蓑石にやってきたのは数字上の名もなき人ではない」
と憤ります。万願寺は自分の弟に対し、「人は好きなところに住む権利がある」という旨のことも言っています。確かに正論です。
それに対し観山は、
- 何かを優先するってことは何かを後回しにすること。
- 南はかま市には児童虐待を扱う支援センターすらない。蓑石の再生よりも先にお金を使うべきことがある。
- 蓑石を維持するためにお金を使えば、他の何かが後回しになって、この町のどこかで誰かが苦しむ。
と主張します。これも正論です。
結局社会というものはエゴとエゴのぶつかり合いでしかなく、何が正しくて何が間違っているかなんて考え方や視点をちょっとずらすだけでガラっと変わってしまうんですよね…
よく行政や政治家を批判する文脈の中で「税金の無駄遣い」なんて言葉も使われますが、これにしたって何が無駄で何が無駄じゃないかなんて簡単に決められるもんでもないです。
誰かにとって無駄なお金の使い道であっても、別の誰かはそのお金によって仕事にありつけて生活を維持できる。何かと叩かれがちな公共工事だって、それによって確かに雇用は創出されているわけです。
社会の構成員すべてが完全なる利益共同体ではない以上、誰かが救われる陰で誰かが泣く、誰かが泣いている陰で誰かが救われている…そんな光景は無数にあることでしょう。
万願寺の、
「人が経済的合理性に奉仕するべきではなく、経済的合理性が人に奉仕するべきだ」
という理屈は腹にすっと落ちるし、その通りではあると思いますが、しかし経済的合理性を追求して社会を維持しなくては、人だって生きていけないわけです。
日本社会を今後も維持していこうと考えるなら、どこかのタイミングで誰かが歴史上の悪役を演じて大胆な切り捨てをやらざるを得ないのかもしれません。それが本当に国民の幸せにつながるかどうか、そこまでして日本社会を維持する必要があるのか、というのはまた別の話というか、意見の分かれるところでしょうが。
いろんな意味で、考えさせられる小説でした。