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ロバート・F・ヤングの短編「河を下る旅」を読んだ感想

ロバート・F・ヤングの短編「河を下る旅」を読んだ感想を書きます。ネタバレ含んでますので、未読の人はご注意ください。

 

「河を下る旅」は短編集「たんぽぽ娘」に収録されています。

 

あらすじ

「河」を筏(いかだ)で下っていく男。

 

この「河」を下っているのは自分だけだと思っていた矢先、若く美しい女に出会い、一緒の筏で下ることになります。2人以外の人物は一切登場しません。

 

読み進めるうちに、この「河」は男と女が偶然にも同時に頭の中に思い描いた世界であり、現実世界の彼らは自ら命を絶とうとしている最中で死に際の状態であることがわかります。

 

無駄を省いた簡潔な描写と構成で臨死体験を描いた話。

 

 

「河」と「島」の出現条件

最初僕は、生きることに未練のある人間に「河」が現れると思っていました。美味しい料理も美しい女性もすべて男の空想物で(実際は料理は空想物でしたが、女性は実在する人物でした)、すべて男の「生への未練」が見せる幻だと。

 

物語の最後に、

二人にとって、この先、もはや河は存在しないだろうと。

 とあり、僕の最初の予想が外れていたことがわかります。

 

男と女は生きることへの執着を自分自身の中で確認し、生き続けることを選びます。しかし人間いつかは死が訪れるものであり、そのとき「生への未練」が全くないというのも予想しがたいものです。

 

そうなると、つまるところ「河」は自ら死を選ぼうとしている者の前に現れるものと考えるのが妥当ですね。最後の一文は「この先二人は自ら死を選ぶことはないだろう」と読み替えることができます。

 

そして「生への未練」は、あちらの世界では「島」の形で現れていたようです。男と女が出会い、お互いの過去を打ち明けあった後に男女として惹かれ合い、いよいよ死が目前に迫ってきたときに最後の希望である「島」が現れる。

 

 思えば、「河」を下る旅の最初のうちから小さな「島」はいくつも登場していました。自ら死を選び、自然体で死を受け入れようとしているように見えて、それでもなお男と女の心の奥底には「生への未練」があったということでしょう。

 

 

人間の「生」への執着

「人間死ぬときは死ぬんだよ。仕方ない。」

といった具合に、死を怖れるでもなく、自然体で接しているような人がしばしばいます。僕はこういったタイプの人の発言をあまり信用していません。

 

別にその人が嘘つきだと言っているわけではなく、

「今はそう思っていても、いざ実際に死を目前にしたとき、その超然とした態度を保ち続けられるのかな?」

と思ってしまうのです。

 

僕はおばあちゃん子でした。祖母は口癖のように、

「もう十分生きたし、十分がんばった。身体もあちこち痛くなってきたし、いつお迎えが来てもいい」

というようなことを言っていました。 

 

しかし、体の具合が悪くなって入退院を繰り返すようになった頃から、

「医者の言うことが信用できない。本当に私の体のことをわかっているのか?」

「早く元気になってリハビリをしないと、動けなくなってしまう」

といったことを半ばノイローゼ気味に言うようになったのを、僕は居たたまれない気持ちで聞いていました。祖母の病状が決して良くないものであることを知っていたためです。

 

元気だった頃は「死」というものをある意味で軽く見ることができても、病気になって体が弱くなってくると、どうしても「生」への渇望が出てきてしまうのでしょう。

 

それが悪いことというわけではなく、むしろ自然なことなのだと思います。人間は結局のところ死ぬまでの間ずっと「生」への執着を持ち続ける生き物なのでしょう。

 

普段は頭の表層からはその意識が抜けていても、心の奥底では「生」への執着、そして「死」の恐怖を抱き続けている。

 

ロバート・F・ヤングの短編「河を下る旅」は、そういった人間の深層意識を描いた物語なのだろうと感じました。