米澤穂信さんの代表作の1つ「さよなら妖精」の新装版を買いました。
新装版に収録されている書下ろし短編「花冠の日」を読んで色々思うところがあるので、感想を書き散らかしてみます。ネタバレ含んでますので、 未読の人はご注意ください。
また、余計なお世話を承知で言いますが、
「さよなら妖精本編は昔読んだことあるから、書下ろし短編だけ先に読んじゃおう」
と思っている人がいましたら、本編を再度読み直してから書下ろし短編「花冠の日」を読むことをおすすめします。
昔読んだ記憶が曖昧になってるかもしれませんし、本編読了から間を置かずに読んだほうがずっと楽しめると思います。
なお本記事の対象読者は「さよなら妖精」を読んだことがあることを前提としてますので、本編の細かい説明は省きます。
物語としては蛇足だけど、哲学的な意味はある
「花冠の日」は本編の時系列1992年7月6日より前、1992年5月22日の話です。身も蓋もない言い方をすると、マーヤが死んだ日です。
正直言うと、この短編は物語的には蛇足の部類かと思います。本編の最後で守屋は真実(マーヤがどの国へ帰っていったか)に辿り着き、太刀洗経由でマーヤ兄の手紙を読むことにより、マーヤに訪れた運命についても知ってしまったわけです。
- マーヤが何故自分の出身国を明かさなかったか
- 太刀洗はどういう想いでマーヤや守屋と接していたのか
このあたりの謎も解き明かされ、守屋自身の成長も匂わせ、本編はそのままでも綺麗に終わっています。読後感が良いかはともかく。
「花冠の日」に意味があるとすれば、それは物語上の意味ではなく、マーヤの言葉を借りるなら「哲学的な意味があった」ということになるのではないでしょうか?
- 軍隊に包囲された絶望の町サラエヴォで、マーヤとその家族はどんな暮らしをしていたのか
- マーヤ視点で描かれることによる、マーヤの温かい人柄
- マーヤはどうして狙撃手に撃たれることになったのか
この辺りが描かれることにより、「さよなら妖精」が読者にもたらす印象がさらに深みを増すことになるのだと思います。
もし紫陽花のバレッタがなかったらどうなってた?
何故マーヤは町に兵士が入り込んでいるかもしれないのに、外出をしたのか。その理由がわかったときに、ぞくりとしました。
本編で自分の無力感に苛まれる守屋に対し、太刀洗はこう告げています。
あなたの挙動や言動が、蝶の羽ばたきのように作用して、それで結果が変わることは、あったかもしれない
太刀洗自身はこの言葉を慰めや励ましの意味で投げかけているのだろうし、僕もここを読んだときはポジティブに受け取りました。
しかし、
何故マーヤは外に出たのか?→花を取りに行くため
何故花を取りにいこうと思ったのか?→誕生日の従妹に花冠を作ってあげるため
何故花冠を思いついたのか?→守屋からプレゼントされた紫陽花のバレッタに従妹が目を止め、花を飾ると言い出したから
こうして考えると、守屋の行動(マーヤに紫陽花のバレッタを贈る)が間接的に作用して、マーヤを悲劇的な運命に導いてしまったと考えられなくもないです。
もちろんこれは言いがかりに近いです。
紫陽花のバレッタがなくても花を飾ることを思いついたかもしれないし、そもそも史実ではサラエヴォは数年にわたって軍隊に包囲されており、多くの犠牲者が出ています。この日は無事でも、マーヤがいずれ凶弾に倒れてしまう可能性は十分にありました。
しかし、紫陽花のバレッタが運命のトリガになった可能性もまた否定できず、作者の米澤さんの作風からするとそういうシニカルな伏線であったような気がしてなりません。守屋がこのことを知らない(また、今後も知る可能性はほとんど無いと思われる)ことだけが、救いと言えば救いかもしれません。
人間の哀しさと美しさが10ページ強の物語に凝縮されている
読者は「花冠の日」で描かれている1日がマーヤ最後の日になるとわかっているだけに、マーヤと家族たちとの何気ないやりとりやセリフを読んでるだけで悲しくなってきます。
でも、ただ哀しいだけではありません。
絶望的な状況にあっても優しさを失わなず、花冠によって従妹に笑顔をもたらすことに哲学的な意味を見出すマーヤ。マーヤという人物を形作っている何か、言い知れぬ美しさを感じます。
これだけの哀しさと美しさに満ちた切ないストーリーを、わずか10ページ程度にまとめた米澤さんの作家としての力量には感服しかないです。
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